トップページ心の健康相談もんもん質問箱 もんもん読書録もんもん日記もんもん写真館もんもん博士紹介

もんもん日記

ここではもんもん博士の日々のエピソードや思いついたことなどを日記でご紹介します。
平成29年
NEW7月〜12月の日記NEW
1月〜6月の日記
平成28年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成27年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成26年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成25年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成24年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成23年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成22年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成21年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成20年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成19年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成18年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成17年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成16年
7月〜12月の日記
1月〜6月の日記
平成15年
7月〜12月の日記
6月までの日記

平成15年6月24日(火)

 先週の土曜日は精神科診療所協会の集まりがあった。この集まりは年に2回あり、京都府で精神科を開業している先生が集まって、講演を聴いたり、情報交換をしたり、親睦を深めている。中には開業して30年になる先生もいる。
 いつもこの会議で問題になるのが、保険審査のことである。保険制度についてはあまり知らない人も多いが、患者さんの窓口の負担は、国民健康保険でも、社会保険でも、現在は原則3割となっている。後の7割が支払い基金から各医療機関に支払われている。毎月患者さん一人一人について、病名、診療内容(検査や処置など)、処方した薬の内容と分量を記載し、保険点数に基づいて定められた代金を請求している。この時の一枚一枚の請求用紙をレセプトと言うが、保険審査ではその内容が適正であるかどうかこのレセプトを見て判断する。審査する方も全部見ていられないので、請求額の高い(保険点数の高い)ものが当然チェックされることになる。審査で認められないと、請求した分についてはカットされ、支払われる額が少なくなる。
 精神科領域ではあまり検査も処置もしないので、そのことで問題になることはないが、薬と適応病名が一致しない時があり、混乱をきたすことがある。一つ一つの薬は保険が適応される病名が決められており、決められた病名とは関係なしに勝手に使うことはできない。患者さんが頭痛の薬を出してほしいと言った場合には、頭痛と言う病名をつけて頭痛の適応が決められている薬だけを使うことができる。ところが、適応病名のない薬が、その病気によく効くことがあり、問題となってくる。審査する方もある程度黙認する場合と厳しく査定する場合があり、その線引きも曖昧である。内科でも外科でもこういう薬が山ほどあり、保険適応のある薬だけしか認めないと、それこそ著しい医療の低下をきたすことになる。だから、審査する方も保険適応がなくともその効果が広く認められている薬についてはある程度黙認することになる。
 たとえば、お年寄りが夜中に夢と現実が区別できなくなって、大声で叫んだり、徘徊する夜間せん妄という症状がある。この時にセレネースという薬が効果があるが、セレネースの保険適応病名は統合失調症と躁病のみである。しかし、今では使用は黙認され、保険請求が削除されることはない。ところが、過食症に効果があるといわれるSSRIのデプロメールやルボックスはこの病名には保険適応がなく、そのまま使うと認められない。この場合には、仕方ないので保険適応のあるうつ病やうつ状態という病名を別につけなくてはならない。このように、保険審査も曖昧な所があり、いろいろな矛盾を含んでいるので、医者の最大の不満の種になっている。
 この日はテーブルを囲んでの食事会となったが、席が決まってしまうと話せる先生も限定されてしまう。特にフランス料理のコースだったので、席は立ちにくい。こういう会はおなかはふくれにくいが、いつものように立食パーティの方がいい。

平成15年6月17日(火)

 きのうは京都労働局で労災会議があった。労災といったら、工場などの事故を思い浮かべるが、最近は自殺やうつ病、PTSD(外傷後ストレス障害)などのケースも多くなっている。このようなケースでは、私を含めた3人の精神科専門の地方労災医員が労災に該当するかどうか検討している。
 私が初めて労災医員になった時には、今のようにしっかりとした判断指針がなく、精神科医は私一人で、滋賀県には精神科の労災医員がいなかったので、滋賀県のケースまで判定していた。けがのように、業務と病気の因果関係がはっきりせず、当初はずいぶんと判定に悩んだ。仕事が忙しかったり、責任が重くてうつ病になった場合、業務が原因でうつ病が生じたと労災認定するには、ストレスに対する個人の強さや性格も考慮しなければならない。当時は同じ状況の時に、すべての人とはいえなくても、8割以上がうつ病になる場合を業務によると認めていた。労災申請は年に数例だけだったのが、年々徐々に増えてきており、今ではしっかりした判断指針ができ、各都道府県で3名の医員が判定するようになっている。
 個々のケースについてここで述べるわけにはいかないが、情報公開の流れの中で判断指針のパンフレットも用意され、どのように判定されるか誰にもわかるようになっている。実際に3人で判定していて、意見が分かれることは皆無に等しい。むしろ、労災申請されて、調査する職員の方が大変である。職場に行って、上司や同僚、部下から事情聴取し、労働時間からすべて調べ、家族にも話を聞いて、これまでの病気の既往や他にストレスの原因となる出来事がなかったがどうかも調査する。病院にかかっている場合には、初診からの経過も問い合わせしなければならない。特に自殺の場合の調査は大変である。我々3人はこうして集められた調査資料をもとに判定するわけである。
 私が一人でやっている頃は、労災認定の壁は高かったが、時代の流れとともに新しい判断指針ができ、少し低くなってきている。実際の臨床の場では上司や仕事内容があわないというケースが多いが、判断指針では大きなストレスとは考えてくれない。重大な人身事故を起こしたり、重大な労働災害の発生に直接関与した場合などを強い心理的負荷と考える。また、1ヶ月の残業時間が異常に多く、数ヶ月も続いた場合も同じように認めてくれる。どうしても、客観的事実から判断していくということになるが、その分誰が判定しても同じ結論に達するということで、公平といえば公平である。

平成15年6月10日(火)

 この前の土日は久しぶりにゆっくりした。毎週日曜日はふだん書いているひまのない書類や診断書を書きに診療所に朝から行っている。毎月税理士に送る書類も整理しなければならない。きのうは保健所で痴呆について話をしたが、この原稿は予め用意しておいた。
 土曜の午後からは家族で朽木のグリーンパークに行ってきた。バンガローは週末は早めに予約しないと空いておらず、後から用事がはいってしまうと、キャンセルをせざるをえない。今年も授業参観と重なることがわかり、この日を希望したが幸い変更できた。去年も他の用事が後からはいり、変更を希望したが、すでに満杯であった。カーナビを使って出かけたが、丹波橋から京都市内を縦断し、八瀬を通って、すれ違うのも無理な道を通っていく。途中からは広い道路に出たが、どう考えても旧街道を選んでいる。とんでもない時間がかかってやっと目的地までたどり着いた。
 雨が降るとの予想であったが、まったく降らず天候には恵まれた。子どもはまだ小学生なので、そばにある屋外アスレチック施設みたいなところで喜んで遊んでいる。バンガローの横にはバーベキューをするテーブルも用意されており、炭を買って火を起こし、用意してきた材料を焼いて夕食をとる。着いてからはビールを飲みっぱなしであったが、近くにはお風呂もあり、ホテルに泊まるより安くて、大満足であった。家が狭いので、家族4人で寝るのは、旅行の時ぐらいである。バンガローの中は大きな二段ベッドが二つ並んでいる。こういう時には子どもたちは上で寝たがるが、息子は寝相が悪いので、万が一のことを考え下に寝かせた。
 次の日も天気がよく、隣接している温水プールに行く。バンガローに泊まっていると割引があり、子どもたちがプールに入って遊んでいる時に、天狗の露天風呂にはいったり、のんびりとする。家内は子どもと一緒に遊んでいるが、私はどちらかというとあまり一緒には遊ばず、いつもデジカメやビデオを撮っている。娘にはまる子ちゃんに出てくる友だちのお父さんのようだと言われている。TVのコマーシャルに「きのうのことはきょうは撮れない」とあったが、本当にそう思う。昔から映像には興味があり、子どもができてからは家族が主な被写体となっている。きれいに撮ることばかりではなく、消え行く過去を記録に残しておきたいという気持ちは強い。写真やビデオは今見て楽しむのではなく、10年後20年後に見るものだと思っている。
 せっかく来たので昼食に鮎の塩焼きを食べたが、一匹600円もした。昼ごろには駐車場が入りきれないほど、大勢の人が来ている。帰りは、真野から湖西道路に入り、京都東インターから南インターまで走ったら、1時間ちょっとで自宅に帰れた。カーナビは相変わらず旧街道の方へ導こうとしたが、今回は無視することにした。そんなに古いカーナビでもないが、全面的にカーナビを信じてはいけないことがよくわかった。

平成15年6月3日(火)

 この前の日曜日は二人の子どもの授業参観日で、家内と一緒に小学校まで歩いて行った。桃山御陵の遊歩道を歩いて20分弱であるが、林の中を久しぶりに歩くのは気持ちがいい。いつも散歩するにはちょうどいいと思うのだが、ここを歩くのは去年の授業参観日以来初めてである。
 授業参観でいつも気になるのは他の親の年齢である。びっくりするほど若い親もいるが、それでも40歳前後の親が多い。自分と同じぐらいの年代の親をさがすがあまりいない。晩婚化が言われているが、学校に行くとあまり感じられない。親と子の年齢が離れていると、そのデメリットとして、自分が定年退職になってもまだ子どもの面倒を見なければならないといわれる。しかし、親と子の年齢が近すぎても、いろいろと問題がある。最近外来患者さんを診ていて思うのだが、自分が定年退職して老後の生活を考えていかなければならないのに、親の面倒をみなければならないという。中には自分が70歳近くで、母親は90歳を超えているケースも決して珍しくない。あまりにも親と子の年齢が離れすぎてしまうのは問題だと思うが、これからの長寿社会ではこれぐらいでちょうどいいかと思ったりする。唯一懸念すべきことは、将来反抗期になって、子どもの方がパワーがある時には、もうちょっと早く生んでおくべきだったと後悔することかもしれない。
 授業参観の方は、息子の方は国語の授業だというのに劇みたいなことをしており、これはこれでそれなりに楽しめた。娘の方は算数の授業で、ただもくもくと計算をしている。算数の授業で突然踊りだすわけにもいかないが、見ている方としてはもうちょっと何かやってほしい。次の授業は図工と音楽だったので、授業にも授業参観向きの授業とそうでない授業があるのがよくわかった。

平成15年5月27日(火)

 新しい電話帳ができて、各家に配られている。前にも書いたが、今年もタウンページに広告を載せているので、早速開いてみる。4分の1ページのカラー刷りで、広告料は毎月6万5千円である。去年は開業したばかりで、北部版と南部版の両方に広告を出していたので、あわせて毎月13万円も払っていたことになる。北部版に載せても、結局患者さんは一人か二人しか来ず、かなり無駄なことをしてしまった。今はあちこちにクリニックができているので、電車かバスで乗り換えなしで来れる範囲内の患者さんが多い。意外に思ったのは、近場の患者さんが多いことである。以前は心療内科や神経科は近所の人は避けていたのだが、意識が変わって便利さを求め、近くでもこだわらなくなってきている。昔はテナントを借りて開業するだけでも、近所から苦情が出たというから、大変な違いである。
 広告を見てみると、大きいのは1ページ近くから、小さいのは8分の1ページまでいろいろある。北部版は見ていないのでわからないが、8分の1ぺージの広告では、はやっている所と比較的新しい所と混在している。はやっている所は、これ以上宣伝は必要ないということなのであろう。新しい所はあまり広告費にかける余裕がなかったり、そもそもタウンページの広告効果に疑問をもっているところと考えられる。もちろん中にははやっていても、大きな広告を出している所もある。経費で落ちるということもあるが、広告に対するそれぞれの医者の考えが反映している。自分自身の所の規模でいったら、広告はこんな程度でいいかなと思っている。
 患者さんからみたら、自分の家や職場から通いやすく、いい医院を選びたいだろう。でも、広告からだけでは医者のよしあしはわからない。一般的に言えば、大きな広告の方が見栄えがあって、安心感はあるかもしれない。しかし、小さくて一見みすぼらしい広告でも評判のいい所がたくさん含まれている。レストランや旅館以上に、医院の場合はわかりにくいと思う。
 先日、目の具合が悪く、行けるのは木曜の夜ぐらいであったので、やはりタウンページで眼科をさがした。東山区でも知っている眼科の先生はいるが、木曜の午後は休診の所が多く、急いでいたので、タウンページを開いた。結膜炎か、運が悪くてもせいぜいコンタクトによる角膜潰瘍ぐらいなので、どこでもよかったが、いざページを開くと迷うものである。頭ではわかっていても、ついつい大きな広告の病院を選んでしまった。

平成15年5月20日(火)

 きのうが誕生日でいよいよ50歳になってしまった。ホームページのキャラクターも三十代のように見え、年齢詐称みたいで、将来は年相応に変えていかなければならない。若い頃の写真を見ると、その時には何も感じていなかったが、男前やったんだなとしみじみ思ったりする。今は歯も悪く、腹も出てきて、髪も薄くなってきている。後何年生きられるかと考えたりもする。世の中だいぶ世代交代しており、大学の医局は教授以外はすべて後輩になって10年ぐらいになる。京都府知事も替わって、確か私より年下であったと思う。
 これまでの人生で最大の危機は3回ほど経験している。1回目は一浪をして医学部を受けなおした時で、ここで落ちたら生きていけないと思うほど精神的に追い込まれた。2回目は医局の人事に関連したことで、どうしようもない挫折感を味わっている。今から考えたら、私も反省すべき点は山ほどあったが、サラリーマンで言えば、再起不能の、当時二度とエリートコースには戻れないようなところに帰る約束もなく行かされた。病院そのものは悪いことはなかったが、まだ若く博士号も取らずそこにずっといることは医者としては落ちこぼれ以外なんでもなかった。
 どうやって再起したかについてはここでは詳しく書かないが、5年10年単位で考えると、誰でも大きな転機や運命のようなチャンスが必ず巡ってくる。それまで、本当にじっと地道な努力を続けるのが大切なことが、身にしみてよくわかった。よく言われることであるが、長い人生で誰にでも訪れるそのチャンスを気づかずに逃したり、それまでの努力が足りずに逃して、不運のせいにしてしまいやすい。結局、自分で思い描いていた人生はあまり大それた夢も抱かなかったので、遠回りもしているが、すべて実現したことになる。でも、同じ人生をもう一度やってみるかと言われたら、もう二度と繰り返したくない。
 結婚は遅く、38歳の時である。それまでは、学生気分でモラトリアムの時代が長かった。当時医局では結婚していない者は大先輩に一人いて、後は私ぐらいであった。精神科の医局は昔から医者の中でも変わり者の集まりと言われているが、結婚していないのはその中でも飛びぬけて変わり者を意味していた。(今はだいぶ時代がかわり、後輩では40歳を超えて独身がごろごろいる) 結婚に関しては他の人の意見にはあまり左右されなかったが、ひとつだけ影響された本がある。上野千鶴子の「つるつる対談」で、著者が友人から言われた言葉であるが、「あんたの生き方は自然淘汰される生き方やで」というのがある。それまで、海老城武の「シングル・ライフ」を読んだりしていたが、この言葉は強烈であった。よく考えると今ここで自分が生きているのは、最初はミジンコか何かであったか知らないが、太古から綿々と遺伝子が受け継がれて来て今存在するのである。確かにあまりいい育てられ方をしていないかも知れないが、自分の遺伝子を自分の人生観でここで勝手に止めていいのかと、それまで考えていた結婚観を180度変えてくれた。利己的遺伝子の考え方も知っているが、今ここに自分が存在するのは不思議といえば不思議である。
 結局恋愛結婚で今の妻と結ばれたが、これも運命かなと思っている。大それた出会いではなく、地味な職場結婚である。めったに夫婦げんかはしないが、する時には離婚しようと思うこともある。でも、このまま最後まで行きそうである。二人の子どもはどちらも顔は自分に似ていて、特に娘はそっくりである。しかし、いつも妻にべったりで、夫婦げんかをするといつも妻の側について腹がたつ。子育てでは、職業がら患者さんの失敗例をたくさん見ているので、細心の注意を払って育てたつもりであるが、なかなかうまくいかないものである。
 開業してあまり変化のない人生が続いているが、もう一仕事何かをやりたいと思っている。このまま町医者として平々凡々と生きたくないが、自分の性格として何か逆境的環境がないとなかなか頑張れないのである。

平成15年5月13日(火)

 最近のお年寄りを見ていると、若い人より食事や運動に気を使い、スポーツ・ジムにもよく通っている。真冬の寒い日にプールに通っていますと聞くと、働き盛りの人よりよっぽど健康的な生活を送り、元気ではないかと思う。
 開業してからは、診察室で一日中イスに座って過ごすことが多い。病院に勤務している時には京阪で通勤していたが、今は駐車場を借りて車で通っている。病院の中は広いので、あちこちの病棟を行き来しているとけっこう歩くことになるが、今はほとんど運動らしい運動はしていない。電車通勤では、二駅前で降りて歩いたりもできるが、車で通うとそういうこともできにくい。体重も徐々に増え、アルコールの量も増えてきている。
 学生時代は夜型の生活を送っていたが、結婚してからは朝方の生活になり、だいたい夜10時過ぎには床につき、朝5時半ごろには起きている。土曜の夜だけは夜更かしをするが、朝はいつもの習慣で早く目が覚めてしまい、ゆっくりと寝ていられない。家を出るのは7時ごろで、この時に家内と長男が起きてくる。娘はぎりぎりまで寝ているようである。朝は途中コンビニで昼食を買うことが多い。午後から出かける用事が多く、1時半までに先方にはいらなければならないので、ゆっくりと昼食をとる暇がない。夜は家でしっかりと夕食はとるが、酒量は段々と増えてきている。昔は350ccの缶ビール1本飲めなかったが、今は2〜3本の缶ビールをあけ、焼酎やバーボンをストレートでがんがん飲んでいる。あまり飲みすぎると、次の日がしんどいので気をつけているが、なかなか減らすことができない。この日記ものらない時にはビールを飲みながら書いている。
 借金を山ほどかかえているので、健康には気をつけなければならない。一番いいのは車をやめて歩くのがいいが、ホームセンターでトイレットペーパーやコピー用紙を買い込んだり、いろいろな支払いのため銀行に行ったりするので、簡単には手放せない。車が必要な時だけ乗ったらいいのだが、駐車場代も払っているので、毎日使わないと何かもったいないような気がする。そんなわけで、今日も70に届こうという患者さんから、プールを何往復も泳いできたと聞かされると、それこそ私より長生きするのではないかと思ったりする。

平成15年5月6日(火)

 5月7日に開業したので、今日でちょうど2年が終わり、明日から3年目が始まる。大病院にいると毎日がなんとなくあわただしく過ぎて行き、開業することなんかよほどのことがない限り考えられない。将来は開業してもいいと考えていたが、資金のことやリスクのことを考えると、そう簡単に清水の舞台からは飛び降りれない。
 たまたま夕刊を見ていたら、病院の近くに建売住宅の広告が出ていた。初めはどんなところかと見に行き、すっかり気に入ったのでそのまま決めてしまった。早く手付けを払わなければならないので、ゆっくりと考えている暇もなかったというのが実情である。いったん決めてしまうと早いものである。もう後にはひけないので、次から次へと決めていかなければならない。医院の設計からレセプトを扱うコンピューターの選定、資金の調達や医師会への挨拶など、今から考えてもうんざりするほどのことをひとつひとつこなしていかなければならない。どのくらい大変かと言うと、例えて言えば、引越しを10回ぐらい連続でやるぐらいのエネルギーが必要である。(もちろん荷物はそのたびに荷造りして、引っ越ししたらきちんと並べて配置する)
 テナントを借りる方法もあったが、いくら経費で落ちるといっても年間何百万円も払うのはばからしいと思ったので、思いきって医院を建てた。全部借金なので、家内が猛反対したのは無理もない。医者は高給をもらっていると思っている人が多いが、公的な病院の勤務医は普通のサラリーマンよりは高いが、同年の銀行員と比べたら低いのではないか。昔は当直などのアルバイトでカバーしていたが、今は禁止のところが多い。特に医局からあちこちの病院に行っている場合には退職金はつながらない。派遣で民間の病院に勤めていたら、退職金さえ出ない。国立福知山病院に2年間いた時の退職金が二十万ちょっとだったことを覚えている。日赤の前は社会保険病院だったので、やめるたびにわずかな退職金がその都度支払われている。
 開業してはやっているかというと、そこそこである。立地のいいところで開業している先生は新患の人も多いが、テナント料も高い。デイ・ケアをやっているある先生が月90万円のテナント料を払っていると聞いて、気が遠くなった。東山区は年々人口が減り、高齢者が多いので、立地条件としてはあまりよくない。患者数は思ったよりは増えていないが、最近は今ぐらいのペースでいいと思っている。医院にかかってくる電話は受付けを通さず、すべて私が取っている。受付けを通してもほとんどが私あての電話で、二度手間になるからである。診察中でもすべて取り、手短かにその場で対処している。しかし、これができなくなるぐらい患者数が増えてきた時には、新患の数は制限しようと思っている。
 開業しての誤算は、やはり孤独である。研究会や講演会には出るようにしているが、ふだんは医者同士で話す機会はほとんどない。病院に勤務している時には特にありがたいと思っていなかったが、いざ気軽に話せる者がいなくなると寂しいものである。医者でも同じ科の先生と話していると、ずっとこころが安らぐのである。

平成15年4月29日(火)

 先週の金曜日に前の職場である京都第一日赤の事務より電話がかかってきた。開業したのはちょうど2年前の5月で、何の用事かと思ったら、年報の原稿を書いてほしいと言う。そういえば、開業前はばたばたと準備に追われ、年報の原稿やホームページの原稿を頼まれていたが、後で送ると言うことでそのままになっていた。ホームページの方は新しい先生に任せていたが、年報の方はすっかり忘れてしまっていた。
 私が神戸より京都第一日赤に赴任した時には、前の部長は定年退職した後で、その後その部長の時の年報を書かされたことを思い出した。実際には自分がまだいない頃の年報を書かされて、ものすごいストレスであったことを覚えている。ただでさえ忙しいところ、かなりの原稿の枚数を頼まれ、何をどう書いていいか本当にうんざりさせられた。だから、私の後を受け継いだ後輩の先生に頼むのは筋違いで、私もやめる間際に書くと約束したのでこの件については仕方ないと思っているが、その後送られてきたファックスを読むと、平成11年度分と平成12年度分となっている。退職前に頼まれていた原稿は平成11年度の分ということで、やめる前の平成12年度分まで追加されている。
 今から平成11年度の年報を作ってどうするんやとつっこみたくもなるが、そこは我慢して原稿を書き始めたが、思うように筆が進まない。2年間何も言ってこなかったので、こちらとしては解決済みだと思っていたが、平成12年度分まで今ごろになって書かなくてはならないのかと思うと、何となくわりきれない。平成11年度分と平成12年度分の原稿の内容も同じではまずいので、変えなければならない。印刷された時に、A4両面にびっしりと小さな字で埋めなければならないので、かなりの字数である。大して書くこともないので、平成11年度分を書いている途中でほとほといやになって中断した。
 乗り気のない原稿を無理やり書かされることほど、苦痛なことはない。なんとか気を取り直して、早いこと完成させなければならないが、今年のゴールデン・ウィークは憂うつな出来事からスタートした。

平成15年4月22日(火)

 4月から週一回だけであるが、臨床心理の人に来てもらっている。精神科の専門病院や児童相談所などでは心理関係の人を雇っているが、今まで勤務していた神戸の社会保険病院や京都の第一日赤は大きな総合病院であったが、全く心理関係の人はいなかった。なかなか予算がなく、雇ってくれないのである。総合病院の中では精神科や心療内科は他の科と比べると収益が断トツに低く、医者もなかなか二人雇ってもらえず、一人で頑張っている所も多い。私自身はもともと心理の人を使わずやってきたので、それほど不自由したことはないが、今月からいろいろな事情により大学院卒の女性を雇うことにした。
 現在文系では心理関係の学部が人気があり、優秀な学生が集まってくるという。国家試験ではないが、臨床心理士の資格を取ることが当面の課題で、大学院生の実習場所として当院を頼まれることもある。今回は大学院卒の子で、やはり知り合いの先生からパートとして雇ってもらうよう頼まれた。知り合いの先生というのは、立命館大学のT教授で、大学の同級生である。当時精神科の医局に入局したのは、このT教授と私だけであった。昔は将来どこか女子大の心理関係の教授になって、のんびりと自分の好きな研究をしたいと思っていたが、臨床心理士の資格ができてからはそんなのんきなことは言ってられないようである。臨床実習の場所の確保から就職先の斡旋までいろいろとやらなければならない。
 どこの大学も臨床心理士の資格が取れることを売り物にして学生を集めているが、まだ需要が追いつかないのが実情である。スクールカウンセラーなども必要とされているが、これまでやってきたベテランの人がやっているようである。大学院を出ても、実際の臨床経験をつむ場所が不足している。クリニックによっては心理検査だけではなく、カウンセラーとして何人も雇っているところがあるが、まだほんのごく一部である。
 とりあえず、今は心理検査を担当してもらっている。私も患者さんも診察では気づかない別の心理的側面を知り、実際の治療に役立てたらいいと思っている。

平成15年4月15日(火)

 今週の木曜日に京都福祉サービス協会から、ホームヘルパー実技講習の講師を頼まれている。日赤にいる時には、新しい抗うつ薬であるSSRIやSNRIの薬が次から次へと発売になり、大病院の部長ということで製薬会社から講演を依頼されることが多かった。開業してからは保健所関係の講演が多くなったが、いつも講演間際まで原稿を書かず、ぎりぎりになっておおあわてでなんとか間に合わせている。
 これは昔からの性格で、試験でも学会発表でもぎりぎりにならないと、やる気になれない。もう間に合わないのではないかというぐらいになって、パニックになりながら何とかしのいでいる。このやり方で今まで失敗したことは一度もなく、いつもぎりぎりで、木から落ちそうで落ちずにぶらさがっている。
 学生時代の医学部の定員は100名で、留年せずに卒業するのは当時80名ぐらいであった。ストレートで卒業した者はほとんど国家試験には落ちなかったが、自分の人生をふり返ってみると、留年しそうで留年せず、国家試験に落ちそうで落ちなかった。同級生に聞いてもらったらわかると思うが、学生時代は本当に落ちこぼれで、これほど授業をさぼって、留年もせず国家試験にも落ちなかった者はいない。自慢話のように聞こえるかもしれないが、当時はいつもぎりぎりまで追いつめられ、最後は死にものぐるいであった。この性格はなかなか治らず、大学入試から始まって今日にまで至っている。
 当初はいつもパニックになりながら、どうしてもう少し早く準備しておかなかったかと、自己嫌悪の連続であった。しかし、途中からこれは自分の強さではないかと思うようになってきた。多分またパニックになりながら、最終的には完璧にこなすだろうという変な自信が出てきたのである。今ではこれは自分のライフ・スタイルで、変えようがないと開き直っている。
 スライドや講演要旨がある場合には、当日より早く仕上げなければならないが、今回だけは久しぶりに焦ってしまった。講演依頼は3ヶ月前ぐらいにあったが、相変わらずほったらかしにしており、講演要旨だけは早めに送らなければならないので、12日の土曜日に外来が終わってから手をつけ始めた。ところが、講演依頼の文書がなかなか見つからない。今回初めての依頼なので、例年やっている講演要旨を参考にもらっていたが、その資料も見あたらない。講演時間も忘れてしまっており、あちこち探してやっと見つけ出したのは午後3時過ぎであった。講演依頼の文書を見ると講演時間は4時間にもなっており、途中休憩時間はあると思うが、考えていた時間よりはるかに長い。ふつう講演会の場合はせいぜい長くて1時間半ぐらいである。これ以上長いと、聞いている方も飽きてくるし、話している方も飽きてくる。今回は講演というより、講義ということで長いらしい。なんとか必死でその日のうちにA4用紙4枚の講演要旨を作り速達で送った。念のため、月曜日に実際の講演時間を確認したら、後半は協会の方で別の予定を組んでいてくれ、話すのは2時間半ぐらいでよかったので、少しほっとする。

平成15年4月8日(火)

 夕べ食事をしながら、子どものTVにつきあわされていたら、CMでキンクスの「オール・デイ・オール・オーバー・ザ・ナイト」が使われていた。最近CMでやたらと、昔のロックが使われている。だいぶ前には、クラッシュの曲が使われていた。何のCMか忘れてしまったが、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」も、ギターを持った女の子に「ブッー、ブッー、ブッー」と歌われている。(プリッツの宣伝でした。)ビートルズの「ハロー、グッドバイ」なら誰でも知っていると思うが、夕べはジミー・ヘンドリックスの「星条旗よ、永遠なれ」が流されているのには、ぶっとんでしまった。お茶の間にジミヘン独特のゆがんだ硬いギター音が鳴り響き、どう考えてもCM向きでない。
 CMプロデューサーが、年齢とともにだんだんと偉くなり、自分が若い頃に聞いた曲を積極的に使っているという話を聞いたことがある。曲によっては視聴者から「うるさい」という苦情もあるらしい。
 自分の音楽暦を考えると、グループ・サウンズに始まって、ビートルズ、ローリング・ストーンズと一通り聞いて、プログレの迷宮へと迷い込んでいった。ユーロ・ロックから民族音楽までなんでも聞いていたが、最近の日本のロックはもうひとつぴんとこない。ちょっと前まではケーブルTVでMTVも見ていたが、日本のロックの多さに閉口して今は見ていない。
 昔はロック喫茶もたくさんあり、今出川のにこにこ亭や千本のドラッグストアー?によく通っていた。阿木譲の「ロック・マガジン」(坂本龍一も愛読していたという)を買ってドイツのアンダーグラウンドなグループのレコードを買い集めたりもしていた。ロック喫茶ではそれこそ地響きがするほどの音量で聞かせてくれたが、今ではそんな所はバンコクのゴーゴーバーぐらいしかないのではないかと思ったりする。今でも時々「マーキームーン」の通信販売でCDを注文したりすることがあるが、なかなか自分好みの音楽にめぐり合えない。ドイツの「ラクリモーザ」というグループの音が比較的好みであるが、中のジャケットを開いてみると、ギンギンのビジュアル系でついていけず、少し複雑な気持ちである。

平成15年4月1日(火)

 この頃カルテを書いていても、なかなか漢字が出てこない。いろいろな本を読むと、40歳を過ぎて中年になるころ頃から、徐々に忘れやすくなるというが、最近は簡単な漢字も出てこない時がある。音頭をとるの「ど」が出てこないし、伊丹市の「いたみ」が先に「板」が出てきてしまって、後が続かない。。患者さんの話を聞きながらカルテを書いているので、すぐに出てこないといつまでも気になって、患者さんの話がそっちのけになってしまう。パソコンを使うようになって漢字を忘れやすくなったという人もいるが、自分の中で徐々に老化現象が始まっているのがよくわかる。
 80歳を過ぎた患者さんが元気に通ってきているが、最近は新聞を読んでいても漢字を忘れてしまって読めなくなってきたという。今は漢字が書けないと騒いでいるが、次は漢字が読めなくなってくるのかと、妙に納得する。今はその時に漢字が出てこなくとも、後ですぐに思い出したりして、波がある。何でこんな漢字が出てこなかったのかと、後で不思議に思うこともある。
 90歳に近い患者さんの家族が薬だけ取りに来ているが、最近散歩に出かけて帰ってこれなくなったという。いつも同じコースで自宅の周辺を散歩しているが、いつまでも帰ってこないので迎えに行くと、ほんの家の先でじっと立ちつくしていたという。その後は問題なく帰ってこれているというが、なにやらふと漢字が思い出せなくなるのと変わりがないような気がする。ふだん止まっていない車が家の近くに止まっていたり、何かちょっとした変化があるだけで、見慣れた景色が失われ、未知の世界に入り込んでしまうのだろう。 
 開業してから、自分の好きなことを勉強したいと思っていたが、患者さんの名前が出てこなかったり、漢字を忘れてしまったりすると、本当に覚えていけるのか心配になる。もともと語学が好きだったので、英語をもう少し極めたいと思っているが、日本語でさえどんどん忘れていくのに、新しい単語を覚えていけるのか、何かむだな努力をしているのではないかと今は最大の悩みとなっている。

平成15年3月25日(火)

 結婚が遅かったので、二人の子どもはまだ小学生であるが、上の娘が塾に通いだした。小学生5年になってからと思っていたが、3月から始まっており、月曜日は夜9時に帰って来る。まだ週3日であるが、春季講習や特別講習があり、なかなか大変である。今までは勉強については全く何も言ってこなかったので、娘も好きなように勉強して、好きなように遊んでいた。大学入試まではまだまだ先が長いので、マラソンと同じで最初から頑張りすぎて途中で息切れするのはよくないと思っている。先頭集団からあまりにも離れてしまってはいくら後半頑張っても追いつかないが、ゆっくりとペースをあげて、最後は全力疾走してなんとか先頭集団に追いつくのが理想である。
 今までは学校から帰ってきてちょこちょこっと宿題だけをやっていたのが、いきなり好きなTVも見れず、塾で勉強、勉強である。好きな番組をビデオでとっているが、なかなか見ている暇もなく、ムダな抵抗のような気もする。今度小学校3年になる息子もただならぬ気配を感じている。それにしても、いきなり全力疾走させられているようで気の毒である。ある患者さんの子どもが塾に行きだして、日曜の特別講習を受けるように勧めたら、日曜ぐらいゆっくりさせてほしいと答えたそうだが、全くその通りだと思う。
 私自身は生まれは愛知県であるが、1歳の時から奥信濃と呼ばれる長野県の山奥で育ってきた。父親はスパルタ教育で、あの当時小学生の時にバイオリンを習わされたり、ソロバン教室に行かされたり、もう大変であった。まだ、習っていない九九をガリ版刷りで鉄拳で覚えさせられたりした。父親は医者ではなかったが、自分の夢を長男である私に託していたと思うが、私の中にはそういうやり方にどこか反発がまだ残っている。一浪してなんとか医学部に入学できたが、もし医者になれなかったら一生再起不能の挫折感抱いて生きていたかもしれない。でも、反対にあそこまで追い詰められたから、医学部に合格できたと言えるかもしれない。
 そんなわけで、子どもたちには自分の夢を託すのはやめようと思っている。自分の生活は自分でできるようになったらいいと思っている。昔は医学部にはいったらそれで人生がばら色になると思っていたが、決してそんなことはない。東大にはいろうと、医学部にはいろうと、またそこで競争が始まるのである。これはこれでけっこうしんどいのである。子どもには基本的にはなりたいものになったらいいと思っているが、アドバイスだけはして行こうと思う。目の前の子どもが大成功してくれるのは悪いことではないが、これから何代か先に日本に貢献してくれる人物がでたらいいと思っている。

平成15年3月17日(月)

 なかなか更新している暇がなく、いつの間にか1年近くた ってしまった。患者さんからもいつ更新するのか聞かれていたが、そのうちといいながらこんなにもたってしまった。
長いこと更新をしていなかったら、更新の仕方もあやふやになり、改めて今回講習を受けなおした。これからは1週間 に1度は更新していこうと思う。
火曜と木曜の午後は外来を休診にしているが、火曜の午後 は立命館大学の草津キャンパスに行き、健康管理センターで学生相談をしている。外来を終えて2時までにはいらなければならないので、ばたばたとせわしかったが、今年の4月からは医局から常勤の先生が代わりに行ってくれることになっ たので、ゆっくりとできそうである。
木曜の午後は保健所や特別養護老人ホームに行き、ほとんどつぶれてしまう。今年の4月からはもう1ケ所保健所が増えるが、医師会の仕事が増えなければ、多少余裕ができそう である。
日赤にいる時には、外来のある月、水、金は朝8時45分か ら午後5時までトイレに1度行くぐらいで、昼食もとる暇もなく全力疾走であった。1日の最高患者数は100人を超え、 ふだんでも80人前後であった。全員診察していたので、1人30秒遅れると、全体で40分遅れることになるので、それこそ 5秒10秒と切り詰めなければならない。ため息をつく暇もないというと大げさに聞こえるが、ため息をつくわずか10秒も惜しんでやらないと、外来が永遠に終わらない。その後でも会議や病棟対診があり、火、木も似たような忙しさで、コンデンスミルクのような生活を送っていた。
それから比べると時間的には余裕がありそうであるが、開業してもそれなりに忙しい。4月からはなんとかホームページの更新だけはして行こうと思う。

平成14年7月5日(金)

 ホームページを作ろうと思ったのは半年以上前で、NTTのタウンページが出るまでと思っていたが、なかなか原稿ができない。5月ごろから本気で考え出し、現在のような構成にすることはすぐに決まったが、肝心の各論が思うようにすすまない。
 6月の末頃から新しい電話帳が出回ってきて、タウンページの広告にはホームページのアドレスを載せているので、とにかく早く立ち上げることにした。まだ未完成のままであるが、少しずつ原稿を書き足していこうと思う。
 それにしても、タウンページの広告費は高い。4分の1ページのカラー刷りで、毎月13万円を1年間振込み続けなければならない。精神科や心療内科の場合は開業している先生はほとんど広告を載せているので、同じように載せざるをえない。診療圏が広いので宣伝効果はあるというが、診療所協会の名簿を見たら、京都府ではすでに58の診療所があり、その大半が京都市とその周辺である。去年の5月に開業して、今年初めて広告を載せたが、実際にはどうなのであろうか。
 NTTは各区でタウンガイドを出しており、東山区と伏見区で広告を出しているが、これも年間15万円と20万円ぐらいかかる。どの先生に聞いても、開業したての時には広告費をかけているというが、他にも京阪に看板を出したりしているので、年間の広告費がいったいいくらになるのだろうか。
 いろいろ考えていたら、気が遠くなってきたのでこの辺でやめるが、ホームページについては家で使っているプロバイダーを使っているので、維持費については心配ない。しかし、業者にプログラムを頼んだので 、何十万円と費用がかかってしまった。ホームページ製作ソフトで自分で作ったら安くつくのはわかっていたが、とにかく時間がなく、業者に頼まざるをえなかった。アイデアやコンセプトは全部自分で考えていたので、枠組みを作ってもらうだけでこんなにかかるとは思ってもいなかった。
 あれこれと考えていたら、めまいもしてきたので、今日はこの辺でやめておく。


前のページに戻る

www.monmonnet.com